あまり耳にはしないかも知れませんが、「刹那」という言葉をご存知ですか?
小説などにはよく出てくる言葉ですよね。「刹那的」と使われることが多いでしょう。
先日、いつものように神主さんが我が家にきてくれました。我が家は神道なので、お坊さんではなく神主さんが来るです。
仏教のお経にあたる祝詞(のりと)のあとに、少しお話をしてくださいます。
今回のそのお話は、「刹那」という言葉についてでした。とても興味深いお話だったので、ご紹介します。
「刹那的」、その意味とは?
「刹那」でも最も使われる形:「刹那的」(せつなてき)を辞書で調べると、
時間が極めて短いさま。瞬間的。”とか“あと先を考えず、今この瞬間だけを充実させて生きようとするさま。
目の前の快楽を求めるさま。
とあります。
ついでに類語を調べてみると、
はかない・一時的・短命
などがありました。
よく「刹那的な○○」という使い方がされますが、だいたいはいい意味の表現ではないし、みなさんもそう理解していると思います。
「刹那」とは、どんな言葉?
「刹那」の「刹」という漢字、普段は見かけない漢字ですよね。
実はこれ、サンスクリット語の「ksana」の音に当てた字なのです。サンスクリット語は、主にインドで使われていた梵語=古代語で、日本でいう雅語のようなものです。
勘のいい人は気がつくかも知れませんが、「刹那」は仏教用語なのです。
仏教での「刹那」は、時間の最小単位のことを意味しています。刹那の長さについては諸説ありますが、その中で分かりやすい説が「指を1回はじく間に65の刹那がある」と言われています。1回を65に分けたひとつひとつが刹那なので、極めて時間が短い意味を持っているんですね。
そして、ある仏教の宗派では、「人間の意識は、一刹那の間に生成と消滅を繰り返す心の継続的な運動」とされています。常に変化しているから、悪が消滅して善がうまれると説いています。そして、常に変化をしているその無常性から、人は悟りを開きたいと考えるのだそうです。
「刹那」は悪い意味ではない
仏教用語の「刹那」には、悪い意味の要素はないのです。むしろ、本来の仏教における意味からすれば、いい意味ともいえます。
例えば、「刹那的な生き方」というのは「瞬間的な生き方」、「刹那主義」は「瞬間主義」「今この時主義」とも言えます。
それは、「今が良くなければ、未来も良くなるはずがない。」との思いや、「その瞬間は、実は過去の積み重ねだ。」という思うからきているなら、悪い意味ではないのです。瞬間は、善が生まれる瞬間なのですから。
刹那を真剣に踊る
心理学界の三大巨匠のひとりと言われるアドラーの思想をもとにした『嫌われる勇気』というベストセラーの中に、「刹那」がいい意味で使われています。
刹那としての「いま、ここ」を真剣に踊り、真剣に行きましょう。過去も見ないし、未来も見ない。完結した刹那を、ダンスするように生きるのです。誰かと競争する必要も無く、目的地もいりません。踊っていれば、どこかにたどり着くでしょう。
瞬間は点でしかありませんが、それを大切にしないと先に何かあるわけがないという感じでしょうか。
スティーブ・ジョブズも同じようなことを言っています。気になる人は、スタンフォード大学でのジョブズのスピーチをチェックしてみてください。
ちなみに、心理学界の三大巨匠は、フロイト・ユング・アドラーです。
まとめ
神主さんから仏教用語の解説を聞き、アドラー心理学にまで話が及ぶとは思っていませんでした。
でも、「刹那」の意味をちゃんと分かると、使いこなしたくなる言葉だし、毎日の自分の生活を振り返っちゃいますね。
まとめると…
- 「刹那的」とは、“時間が極めて短いさま。瞬間的。” や“目の前の快楽を求めるさま。”の意味で、一般的にはいい意味では使われない。
- 「刹那」は、仏教用語であり、時間の最小単位。
- 仏教での「刹那」は、“刹那の中で、悪が消滅して善がうまれる”説から、いい意味での瞬間を表している。
- アドラー心理学でも、「刹那を真剣に踊る」という、いい意味での表現が使われている。
平家物語で有名なフレーズ「諸行無常」も仏教用語です。“一瞬といえども存在は同一であることはない”という意味です。仏教こそ、瞬間を大切にするんですね。